comosol studio atelier Taiyounoko

Kids Art Work

CREATIVE

アソベないと創れない!

コドモだからできることがある。コドモでないと創れないものがある。
ワクワクできなきゃアートじゃない。
そして、その表現はコドモだから生み出せるアートの一級品でもある。
アトリエ太陽の子・町田市・鶴川・造形教室・お絵かき・絵画・工作・子どもアトリエ・アトリエの先生養成
アトリエ太陽の子・造形教室・こども・お絵かき・アトリエの先生養成
巨大なダンボール迷路のインスタレーションが多摩湖畔に出現2010年7月

【空間で遊ぶ。みんなで遊ぶ。ーーーKoDoMoインスタレーション】

インスタレーションとは空間芸術。たくさんのこども達が集まって、広い空間で思いっきり遊んでみました。動画を含むスライドショー形式でもご覧ください。<115秒>

過去34数年間にわたって実施されてきた宿泊制作の様子をインスタレーション集としてダイジェスト編集したものです。


【アトリエ太陽の子2011こどもカーGP in お台場】

2011年11月3日(文化の日)御台場のトヨタ自動車関連施設メガウェブにて228名のお子さん達によるソープカーのレースが開催されました。会場では、ダンボール素材­をもとにしたユニークなデザイン力と走行距離を競い合う一日でした。
動画形式でご覧ください。<53秒>



【SEED/ENprogram】
en ロゴ

二歳・三歳・四歳・五歳・六歳 この時代をこどもは、あたかも繭(まゆ)を紡ぐようにして成長していきます。エン・プログラムは、繭の時代の感性を育むプログラムとしてそのノウハウの構築に努めています。
プログラムからプロジェクトへと展開することを計画中です。賛同者の合流をお願いいたします。※enとは、保育園、幼稚園の園を指しています。

アトリエ太陽の子・東京都町田市鶴川・造形教室・お絵かき・絵画・工作・子ども・園児・小学生・アトリエの先生養成)#show(DSC00168.png,aroundr,アトリエ太陽の子・東京都町田市鶴川・造形教室・お絵かき・絵画・工作・子ども・園児・小学生・アトリエの先生養成

たいせつなこと「ゆっくり描くこと」、たいせつなこと「あたらしい」を見つけること。大人に判るように描けることは、少しも大切ではありません。こどもが楽しんでいることの方が遥かに大切です。手際よくつくることは、少しも大切ではありません。寄り道してゆっくりつくることが大切です。キレイであることは少しも大切ではありません。ドロンコの勇気こそ大切です。

ルーツに近い人々はASOBIを母として始めたのだろーーーSEED/ENprogram
造形表現は、100点評価のない遊びと可能性の空間。知力や感情より、もっと根元にある感覚の領域を広げることが大切だと思います。子どもはヒトの原型、プロトタイプです。子どもの世界は、大人が非合理として放棄してしまった多彩な世界が、無傷のまま残されています。閉塞する現代を切り開くには、この多彩な能力を再度、評価することは差し迫った課題だと考えています。
アトリエ太陽の子では、この能力の基点を『グチャグチャの系譜』として大切にしています。グチャグチャ即ち、カオスを大切にしているのです。KoDoMo力を大切にしようではありませんか!そして、その先に何が見えるのかと思っただけでワクワクしてきませんか!コドモが変わらなきゃ世界は変わらない!'


ザ・エッセンス!【グチャグチャの系譜】<72枚>

このホームページの最深部に最も重要視すべきエッセンスを沈めておきます。何故に人目につかぬこの場であるかについては、語る紙面なく、語れるほど容易ではないので、ご覧になった方が勝手に推測ください。ただ、言語を落としておくのはワタシ自身のためです。自身の体外に存在させた言語は、造形表現と同様に他者のように独り歩きし在るべきところに在るべき姿を成してくれる。そんな効果を期待する全く私的な要請によるものです。もちろん、ひょんなことでご覧になった方が、何かを感じて頂くのはご自由です。
実のところ遠い彼方からご覧になる方の心が動くことを期待してはいるのですが!

以下のビジュアル群は【グチャグチャの系譜】として最も重要視して日々、実践しているものです。そして、その神聖な造形の宝物を守るために幾つかの反言語的な活動があります。その一例として言語の持つ意味性を剥奪して展開する自動記述法による成果はフェースブックページ『アトリエ太陽の子+』に紹介されています。
これらは大脳表皮が我々に強制してくる教育上のとるに足らない成果を競い合う階級性を乗り越えて到来しつつあるドラッガー申すところの「知識社会」ワタシ申すところの「智識社会」での教育のあり方と深く関わっていることをお伝えしておきます。などと語れば語るほど意味不明とおしかりを受けそうですので兎にも角にもビジュアルで感じとってください。

画像の海としてアップします。指先の命ずるままお好きにクリックください。何かがお心に残るかもしれません。世に偶然などというものは一つもありません。全てが必然で、全てがあなた自身です。ではどうぞーーーーーーー。


画像上をクリックすると拡大され、スライドショー形式でもご覧になれます。

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【制作表現の動機付け「具体 Gutai」とは何か?】
トップページにて同一見出しにより掲載の全文を掲載します。

次代をになう造形表現のハウツーは、「表層から一気に深層へ」

これから述べることは、こどものアトリエの現場から導き出された事柄です。シンプルで経験的で単純なのですが、文字化すると難解なものとなることが予想されます。事前に断っておきたいのですが、難解さの理由は、ここにあるのは論理的な解説ではなく、極めて感覚的、経験的な記述であることからきています。直感で把握できると極めて単純な事柄なのですが、分析的に捉えようとしたり、言語表現に頼りすぎると難解なものとなってきます。
ご了解の上、次へとお進みください。

◎序説:アートとアートでないものの見分け方
先ず、前段として表現物におけるアートとアートではないものの違いについて確認しておきます。
表現がアートとして成立するには、その表現のどの切り口にも多角的なメッセージが読み取れる必要があります。例えるならば、ひとつのリンゴを色々な角度から切ると色々な切り口のカタチが現れるのと似ています。作者の単一なメッセージではなく、作者すら予期し得ないメッセージすら多様に含んでいるものだけがアートとしての資格を有していると考えます。多くは、作者の意図とは関係なく自立して一人歩きするぐらいの独立性を持っています。即ち、一個の『存在』としてなり得ていることを意味しています。一方、一面的な主張や解説、装飾に終始するものは、記述や説明になれたとしてもアートとしての存在にはなりえません。

◎アート表現の入り口「Gutai」の提唱
ここで言う「Gutai」とは、表現物の制作時に必要とされる表現の入口。即ち、動機付け、制作現場で言うところの「キッカケ」の様式のひとつです。
従来表現教育の場で扱われている「導入」近年、やっと一般化しつつある「設定」という様式をすら超えたところにこのGutaiを位置付けたいと考えます。それは、作者が制作の現場で最初に出会う具体的な事象を指しています。例えば、ダンボールや絵の具、石コロなどの「物」であったり、重力や長さ、線や面などの「概念」であったり、火や森や魚というような肉声音としての又は記号としての「言葉」と言う具体的事象です。まとめて、Gutaiという概念で取り扱っていきます。

◎「Gutai」は内容の希薄なペラペラとした表層概念?
このGutaiをもう少し踏み込んで定義すると、見た目にペラペラと表面的、表層以外の何者でもなく、単純な意味性は含むことはあっても内なる内容性を伴わないものです。単なる表層、表面、見えたマンマに終始するものがGutaiです。
Gutaiは、制作開始時点に一切の内容、一切の感情、一切の意図を伴わない物理的なインセンティブ(単純刺激)として作者に提供されます。このインセンティブを作者がどのように捉えるか、どのような感情を発生させるかは、提供者の知るところではありません。ですから提供者は、極力自身の意図を込めず、方向性も示さず、可能な限り無機的にGutaiを作者に提供することになります。
制作の現場では、一見無意味に飛び込んできたGutaiが、作者の感覚器官を始動させたます。その途端にクリエイティブ派生自動装置が稼働し、作者の体内深層部に向けて、猛スピードで活動を展開していきます。その過程は、2次元や3次元の造形作品となって心象の痕跡をとどめて作品表現として残されます。

◎自身の感性を信じて熱中するとアートが出現する。
TOP PAGEに掲載のの写真は、2016年度の3節講座生によるモビール作品です。3本の糸の先に小石が重しとなって吊されており、糸と糸の間に竹ヒゴが重力のテンションバランスで組まれています。三原色の不定形色面もやはりバランスを考慮して作者の感性に応じて配されています。作者は、あくまで物理的なバランスに注意を払い制作しており、そこに何らかの高邁なアート上の意図を込めようとはしていません。
と言うより、単純な造形上の整合性を感覚的に納得することに追われて、もしくは目前に展開される造形物のカッコ良さに酔ってしまって、それ以上に意図する余裕がないのです。竹ヒゴや糸、石ころやポリプロピレン性の鮮やかな板、そして制作を動機付けるバランスがGutaiとなって制作の自動装置が動き出します。作業が完了する頃合いは、作者の感性が命じることになります。
終了した直後、作者は何故、そのようなフォルムをつくったのか。その内容に何が含まれているのか理解できません。自分以外のもう一人の自分が創ったのかもしれないと他人事のように思えたりします。残るのは、熱中の心地良い疲労感くらいでしょうか。その表現が何を意味しているのか理解できるのは、制作が完了してからです。完了直後、又は数日後、一ヶ月後、場合によっては数年後に思い当たることもあります。
このような現象が起きるか否かがアートとして存在出来たか、出来なかったかの判断のバロメーターになります。大人であれ、こどもの造形活動であれ同様に当てはまる事柄です。

◎そして、こどもと大人
執筆中の窓外に目をやると公園でシーソー遊びするこどもが見えます。中央に立って水平を維持することに躍起となって遊んでいる様子がアートの制作と動機付けについて論じていることと何やら似ているように思えます。後になってこのシーソー遊びは、偉大な地球の重力に関する考察であったなどとコジツケ気味に語ることができます。ならば逆に返して、偉大な地球の重力に関する考察するためにシーソー遊びを始めたなどと言うと、全くたわ事のように聞こえてきます。しかしながら、驚くべきことに周囲を見渡すとこの種の意義付けや理想感を第一義に掲げてから、表現を求める人々のなんと多いことか!「のびのび明るく描きましょう!」等のスローガンや教育上のお題目ではアートは生まれません。表面のきれいごとで終始する嘘つき大会のようです。教育の現場やこどものアトリエですらこのような陳腐を目撃することがあります。
皆さんはなんにでも大義や目標を前提に教育がなされる様子をどうのように思われますか。

◎まとめ
制作の入り口としてGutaiから始めることで意義や意味が感じづらくなります。つまり、方向性を持たない単なる事象との出会いのように感じるわけです。制作に没入しはじめると、作者が自身固有のベクトル(個性)に従って深層界へと働きかけていきます。その時、作者すら想いもしなかった世界に出会い表現の内容が増幅されます。結果、多角的で多様な高密度の表現を生み出す可能性が高まるのだと考えます。これらのプロセスで得た能力のことを一般では、潜在能力と読んでいます。
近代の人々が意識しているとする領域の狭さに比べ、無意識などと名づけてあたかもテーマ外のように扱ってきた領域のなんと広大なことでしょう。

こどものアトリエで潜在能力の発揮又は、自由領域の拡大を求めるのであれば、制作時の動機付けを、表面的で、無内容な「具体 Gutai」とすることを推奨します。

2016.06.25 井上義教 記



問合せ先:太陽の子芸術教育研究所/comosol@comosol.jp


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